一日に十二時間バイトをしている女の子

2012.02.08

雨が止んでもSさんはカウンターに座り続けていた。もう電車の音がしない時間だ。だいぶ酒も入り、ろれつが回らなくなっている。「なあ、これ、見てくれ。この鍵だ」Sさんは僕にひとつの鍵を握らせた。どこにでもありそうな部屋の鍵に思えた。「部屋の鍵ですね?」「そう思うか?違うな。これは心の鍵だ」「心の鍵?」「そうだよ。心の鍵だ。俺が作ったものだよ。この鍵はどの鍵穴にも合わないように作ってある。この世界にあるどの鍵穴にも合わない。鍵屋にそういう風に切ってもらったんだ。このギザギザは適当に削ってあるだけだからこの鍵ではどこのドアも金庫もロッカーも開けられない。どこの扉も開かないのに鍵だけがある。だからこれは心の鍵なんだ。やるよ、それ。プレゼントだ。今のあんたにはぴったりなプレゼントだ」「Sさん、ひょっとして今思いつきで喋っていません?」「いや、芸術だよ。鍵を貰うのもバーテンダーの仕事のひとつだよ。違ったか?」「違いますよ。鍵を捨てるのがバーテンダーの仕事ですよ」「そうだったかな」確かにSさんは芸術家らしい。後に店長から聞かされたことには若い頃にはペンネームで小説も何冊か出したという話だった。かなり売れたらしいよ、と店長は言った。だからカルト的なファンがいて、インターネットで彼が新しい作品をアップする度に話題になる。その作品は小説だけでなく多岐に渡る。短編映画、絵画、ポットーキャスト、インターネットテレビ局、またはアートーショップも展開している。すべての作品は風変わりだ。たとえばポットーキャストは八十六歳の自分の祖父をMCにしたものだ。世界最高齢のポットーキャスターというふれこみで世界じゅうでカルト的な人気番組にまでなってしまった。インターネットテレビは「JIBUNニュース」という名前で、一般の日本人に三分間だけ質問する番組だ。それに字幕をつけ世界に配信する。一般の日本人が実際どのような生活をし、どのように感じながら生きているかに標準は当てられる。たとえば「一日に十二時間バイトをしている女の子」が日本では当たり前だが、世界ではニュースになる。